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第26回別時念仏会

11月13日(土)良運院様において第26回別時念仏会が厳修されました。

コロナ感染者もこのところ減少しており、別時念仏会も参加者が増え、喜ばしい限りです。

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住職法話11月「親の愛」

2021年日本の高齢化人口(65歳以上)が世界1位の29.1%であり、平均寿命、

女性は世界1位の87.74歳、男性は世界2位の81.64歳であります。

「変わりたくても 変われない 変わりたくなくても 変わっていく」

人はそう簡単に心を入れ替えて変わることはできませんが、老いは確実に来ます。

老いたくなくても老いてしまうのです。 一人暮らしから、同居に踏み切る家庭は少なくありません。一見すると幸せなことでしょうが、息子は会社に、嫁もパートに、孫は学校や習い事に忙しく日中は高齢者が独りで家にいるケースが多くあります。同居してるから安心ではなく、高齢者の気持ちに寄り添う事が大切であります。

昔、ある村では60歳になれば山に捨てるという掟がありました。その山の名前は姨捨山(おばすてやま)と呼ばれていました。

ある日のこと、その村の一人の男が、齢老いた母を背負って山へ捨てにゆく途中のこと、背中で時々枝を折る音がするではありませんか。「さては母が、捨てられたあと一人で山を降りるための目印を作っているな」男はそう思いましたが、知らん顔でようやく山奥にたどりつき、お母さんにさよならを告げました。その時お母さんはこう言ったのです。

「いま、山を登ってくる時、お前が帰り道を間違えないよう枝を折って目印をつけておいたよ。それを頼りに気をつけて里へ帰りなさい」
自分が捨てられようとしながら、なお我が子のために道しるべを残してやろうとする親心に男はいたく感動し、親不幸を詫びるとともに再び老婆を背負って山を降りるのでありました。その後男が孝行したことはいうまでもありません。
自分のことは一切考えに入れずにただ相手を思いやる、これを老婆心(ろうばしん)といいます。 自分を目いっぱいに考えに入れ、自分の面子と損得で子を育てている親がいるのは悲しい事です。
私たちは老人を山に捨てるようなことはしませんが、精神的に老人を捨ててはいないでしょうか?

親は口うるさく、いつまでも心配だから、世話を焼いてしまうのです。それを素直に「はい」と受入れ、逆に「ありがとう」と言える子どもになっていきましょう。

阿弥陀様は何も言わないが、ただ案じて下さっています。その御心に応えて、「南無阿弥陀仏」とお称えしてください。    合掌

11月掲示伝道

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住職法話10月「優劣」

どんな立派な人でも全ての人から好かれることはなく、どんなに嫌われる人でも全ての人から嫌われる事はありません。

お釈迦様でさえ、当時の人たちの三分の一は知らず、三分の一は変な人  三分の一が尊い人だと称賛しています。

私たちは誰かと接した時に、自分よりも優れた人に対しては、妬ましくなり、自分よりも劣っている点を探そうとします。自分と同じレベルの人に対しては、自分の方が上だと思い、なかなか相手を認めず、自分より劣った人に対しては、明らかに自分のほうが上だと相手を見下す心が出てきます。

自分の方が上なんだと思う心を  「慢」「過慢」「慢過慢」の3の心で表します。

「慢」は自分より劣る。相手を見下す心 上から目線です。

「過慢」は同じレベルに対して自分の方が優れているという心です。

喩えるならば、我が子がテスト70点、友達も70点、同じ点数であるのに、うちの子はクラブ活動しながら、塾も行かずに70点。それに比べて、友達は塾に行きながらの70点。

同じ点数でも、中身が違う。うちの子の方が偉いと威張ってしまう心であります。

「慢過慢」自分より優れているのに、素直に認めることができず、相手の欠点を探して、私の方が上だと思う心であります。

仏教界でもみ教えの優劣がありました。しかし、法然上人はどの教えが素晴らしいのか、どの教えが劣っているのかではなく、我が身にふさわしいみ教えは何であるのか、我が身を見つめて自分にふさわしい信仰を歩ませる。それが口称念仏であります。

我が力で救われるのではなく、阿弥陀様の本願力で救われていく、これが他力念仏であります。すべての人々が救られる道、お念仏に励んでいきましょう。合掌

 

 

10月掲示伝道

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秋を感じさせる

秋の気配が感じられるようになってきました。

境内の地蔵さんを讃えるように彼岸花が咲いています。

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住職法話9月「信心」

信心はありますかと尋ねたら、「あるというわけでも」じゃー信心はないのですか?

「別にないというわけでも」じゃーあるんですか?「あるというほどでも」と、問答みたいな返事が返ってきました。

浄土宗の信心は何を信じるか。

第1 阿弥陀様を信じる

第2 西方極楽浄土を信じる

第3 お念仏を信じる

今から、250年前のお話ですが、山口県長門市浄土宗寺院西圓寺に法洲(ホウジュウ)上人という名僧がおられました。そのお方が法然上人のお言葉の一説が気になりました。 「本願に乗るずることは信心の深きによるべし」阿弥陀様の救いを頂けるのは、信心が深くないとダメだと言われるが、よくよく自分を見つめれば、自分の信心とは心もとなく、深くはない。この疑念を晴らすために

関東におられる関通(カンツウ)上人にご相談に行かれました。

「法然上人は、お救いあずかるのは、その人の信心の深さの程度によるものだと申されています。ところで、私の信心というものは、正直に申せば、浮かんだり沈んだりしながら川の流れにただよっている浮き草のようなものです。有ると思えば無い、無いと思えばあるといった、はなはだ心もとないものです。私のようなものはどうなるのでしょうか。」

「あなたはまた何を考えていらっしゃるのですか。私の心も浮き草のようなもので、浮き草以外の何物でもないのが人間の心ですよ。そのために阿弥陀様がご苦労なさってお念仏を与えて下さったのじゃないですか。人間の心が浮きっぱなしであったとしたら、仏さまはいりません。沈むからこそ、阿弥陀様が、頼もしいのです。そんなことにくよくよする必要はありません。ただ、おおらかにお念仏なさいませ。浮けば浮かんだで、沈めば沈んだで如来様があなたに一番ふさわしい道を選んで下さっているのです。ただ、ただ、おおからにお念仏なさいませ」とお答えになった。

 

法然上人は人間が本来持っている心の内面を深く深く見つめた時に、心とは頼りにならないものであると気づき、自分自身にもその事を受け入れた。だからこそ、私たちには阿弥陀様が必要であり、お念仏によりこの身このまま救われていくのであります。信心のなさを嘆きながらも、お念仏をお唱えすれば、必ず極楽浄土にお救いくださります。合掌

9月掲示伝道

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したでらまち地蔵盆献灯会

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23日・24日と2日間に亘って地蔵盆が厳修されました。

最近は少子化の影響もあり、寂しくなってきている地蔵盆ですが、夏の行事として盛り上げていきたいものです。

 

住職法話8月「涙」

人間の涙にはどんな意味があるのでしょうか。悲しくて流す涙、うれしくて流す涙、くやしくて流す涙、人はさまざまな場面で涙を流します。

今、東京オリンピックが開催されております。アスリートが流す涙も様々です。

日本選手の活躍、メダルラッシュで本当に喜ばしい事です。口々に感謝の言葉を述べる選手たち、そこには感謝の涙もあったでしょう。

今から百年以上も前、イギリスにファラデーという偉大な化学者がおりました。彼は研究のかたわら、大学で教べんをとっていたのですが、ある日のこと、化学科の学生たちの前に、一本の試験管をもって現れました。そして、学生たちに次のように尋ねたのです。

「実は、この試験管の中には人間の涙が入っているんだが、諸君、人間の涙には何が含まれているだろうか」学生たちは、涙と聞いて多少驚きながらも、そこは化学科の学生のこと、難なく答えました。「先生、それは大部分が水で、あとは塩分が少し入っています。

「よろしい。確かにその答えで間違いではないが、人間の涙というのは、ただそれだけのものだろうか。科学的にいくら分析しても、分析しきれないものが、人間の涙には含まれているのではないだろうか」と、学生たちに疑問を投げかけたというのであります。

涙は、いくら科学的に分析したところで、水と塩分に過ぎません。しかしその奥には、目には見えないが、尊いものが含まれていることを、ファラデー先生は教えたかったに違いありません。

目に見えるものと目に見えないもの。目に見えないものにこそ、光をあてましょう。合掌