ブログ│宗教法人 稱念寺

オフィシャルブログ

住職法話4月「心静かに」

便利な世の中になったのに、現代人は慌ただしく生活をしています。

コップの中の泥は、放置しておくと、やがて水と泥に分離します。

心を静かに保つためには、ぼんやりする時間も必要ではないでしょうか。

時間があれば、電車内や食事のつかの間でもスマートホンをいじっています。

何も考えずに過ごすこと、立ち止まって見る事はとても大切な事だと思います。

 

「正」とは「一(ひとつ)」「止」と書きます。

一日一回でも、立ち止まり、自分を顧みる事が正しい行いにつながります。

心静かになれる場所がお寺の本堂であり、ご自宅の仏壇の前ではないでしょうか。

どうか合掌して心静かになることも大切です。合掌

4月掲示伝道

IMG_2547

住職法話3月「祝聖文(シュクショウモン)」

天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起 國豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修禮讓

(テンゲワジュン ニチガッショウミョウ フウウイジ サイレイフキ コクブミンナン

ヒョウガムユウ シュトクコウニン ムシュライジョウ)

上記偈文は浄土三部経の『無量寿経』の中の祝聖文(シュクショウモン)といい、意味するところは、「天下は太平であり、日と月は清らかに明るく照らし、風と雨も時に応じ、災害と疫病も起きず、国は豊かに人々は安らかに過ごし、兵や武器を用いる争いごともなく、人々は徳を崇め仁を尊び、努めて礼儀と謙譲の道を修めます」世の中が平和で、人民は安穏であるようにと願い唱える偈文であります。【浄土宗大辞典】

 

お釈迦様のお言葉であり、世界人類皆の願いでもあります。しかし、歴史を振り返ってみても争いごとは絶えなく、今もウクライナで戦争は起っています。未来に向かって同じ過ちを繰り返しています。

 

今月の掲示伝道は、「私は正しい」争いの根はここにある。

 

私は正しいと思う心があるから争うのでしょう。宗教では「懺悔」という言葉があります。

生きとし生ける物の中で、「懺悔」するのは人間だけでしょう。日々自分を見つめ直し我が身を反省することがとても大切であります。

賢くなることを教える世の中で、自らの愚かさに気づかせてくれる教えが仏法であります。

どうぞ、み仏様に手を合わせ、お念仏をお称えしてまいりましょう。合掌

3月掲示伝道

IMG_2481

涅槃会

2月15日は涅槃会でございます。

書院に涅槃図を掛け、回向いたしました。合掌

IMG_2421

涅槃図

石仏阿弥陀如来坐像

2月12日(土)

合祀墓の阿弥陀如来坐像をお迎えすることができました。

御尊顔につきましては、當山所有の掛け軸、山越阿弥陀如来の御尊顔がモデルです。

IMG_2437

 

IMG_2438

住職法話2月「全能感と万能感」

やっとコロナが落ち着いてきたかぁと思っていましたら、オミクロン株により感染急拡大という現実。なかなか思い通りにはならないものです。

赤ちゃんは「世の中、自分の思い通りになる」と勘違いしているそうです。周りの大人を操り、自分の都合の良いように動かす様子は、まるでリモコンでテレビやエアコンを操作する姿にも似ています。赤ちゃんの泣き声がまさにリモコンの役目を果たしている訳です。泣けば大人があらゆることをしてくれる、守ってくれている。

これを心理学では全能感あるいは万能感と呼ぶそうです。全能とは何でも出来る、また万能とは、何にでも効くこと。つまり「自分が何でもできる」という感覚を意味する言葉で、子供の発達段階に於いて、しばしば見られる現象とされています。それが、ただの勘違いであると気付くことが成長なのです。即ち「泣いても思い通りにならない」という事。時に自分の思いと現実のギャップを受け入れられず、もがき苦しむことがあります。それが反抗期。その反抗期も次第に現実を受け容れる中に落ちつきます。

しかし、世の中には全能感や万能感を引きずったまま大人になる人がいます。一番ややこしいのは全能感・万能感を持ったまま子供に恵まれ親になってしまうことです。我が子だから親の思い通りになると勘違いをし、思い通りにならないと力ずくで思い通りにしようと虐待をしてしまったりするのです。

全能感・万能感を引きずった人は、思い通りにならない現実を受け容れられず加持祈祷やまじない等の神頼りに走ります。思い通りにならない現実を無理やり自分の都合のいいものに変えようとしても、結局は思い通りにならず苦しみが増し、迷いが深まるばかりなのです。「人生は思い通りにならないものだ」としっかりと受け止めることが大切ではないでしょうか。

その苦悩多き人生を私と共に歩んでくださるお方が阿弥陀様なのです。み仏様と接していると、温かい心で私たちを見守ってくださいます。その願いに応えるようお念仏を称えてまいりましょう。合掌

2月掲示伝道

IMG_2405

住職法話1月「身をまかせる」

明けましておめでとうございます。

本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

今年も一つ齢を重ねました。

歳は取りたくないものですが、平等に老いていきます。

 

「鶴は千年 亀は万年 我は天年」とは臨済宗の僧侶、仙厓和尚が残された言葉です。

鶴や亀は寿命が長くおめでたい事を表現するときに使われます。

「我は天年」と言われた意味は、命とは天からの授かりものであるから、精一杯、楽しく生きなさいということであります。

浄土宗の立場からはこの「我は天年」は生に対して、執着することなく、亡くなればただただ、極楽浄土に往く身である。

命は親から授かったものであり、感謝して日暮らしをすることが大切であります。

法然上人は「いけらば念仏の功つもり しなば浄土へまいりなん とてもかくてもこの身には 思いわづらふ事ぞなき」とおっしゃっております。

この意味は、生きていれば念仏の功徳が積み重なり、死ねば浄土へ参るのです。いずれにしてもこの身には、思い悩む事が何もありません。

 

大阪では昨年、医療崩壊がおきました。受け入れてくれる医療施設がなく、不安で不安で心もとなく過ごされたことでしょう。

私たちも亡くなればおしまいではなく、受け入れて頂ける世界、西方極楽浄土があるのです。

お念仏をお称えすればすべての人々が往生します。一喜一憂することなく日々の生活になんの不安もなく暮らしていけるのです。

 

後の世も この世もともに 南無阿弥陀 佛まかせの 身こそ安けれ

どうぞ今年1年も阿弥陀様にお任せしてお念仏精進していただきたいと祈念申し上げます。合掌

1月掲示伝道

IMG_2341