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住職法話9月「信心」

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信心はありますかと尋ねたら、「あるというわけでも」じゃー信心はないのですか?

「別にないというわけでも」じゃーあるんですか?「あるというほどでも」と、問答みたいな返事が返ってきました。

浄土宗の信心は何を信じるか。

第1 阿弥陀様を信じる

第2 西方極楽浄土を信じる

第3 お念仏を信じる

今から、250年前のお話ですが、山口県長門市浄土宗寺院西圓寺に法洲(ホウジュウ)上人という名僧がおられました。そのお方が法然上人のお言葉の一説が気になりました。 「本願に乗るずることは信心の深きによるべし」阿弥陀様の救いを頂けるのは、信心が深くないとダメだと言われるが、よくよく自分を見つめれば、自分の信心とは心もとなく、深くはない。この疑念を晴らすために

関東におられる関通(カンツウ)上人にご相談に行かれました。

「法然上人は、お救いあずかるのは、その人の信心の深さの程度によるものだと申されています。ところで、私の信心というものは、正直に申せば、浮かんだり沈んだりしながら川の流れにただよっている浮き草のようなものです。有ると思えば無い、無いと思えばあるといった、はなはだ心もとないものです。私のようなものはどうなるのでしょうか。」

「あなたはまた何を考えていらっしゃるのですか。私の心も浮き草のようなもので、浮き草以外の何物でもないのが人間の心ですよ。そのために阿弥陀様がご苦労なさってお念仏を与えて下さったのじゃないですか。人間の心が浮きっぱなしであったとしたら、仏さまはいりません。沈むからこそ、阿弥陀様が、頼もしいのです。そんなことにくよくよする必要はありません。ただ、おおらかにお念仏なさいませ。浮けば浮かんだで、沈めば沈んだで如来様があなたに一番ふさわしい道を選んで下さっているのです。ただ、ただ、おおからにお念仏なさいませ」とお答えになった。

 

法然上人は人間が本来持っている心の内面を深く深く見つめた時に、心とは頼りにならないものであると気づき、自分自身にもその事を受け入れた。だからこそ、私たちには阿弥陀様が必要であり、お念仏によりこの身このまま救われていくのであります。信心のなさを嘆きながらも、お念仏をお唱えすれば、必ず極楽浄土にお救いくださります。合掌