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住職法話12月「いのちの日」

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師走に入りまして、喪中はがきが届く時期になると、今年もわずかだと感じさせられます。

亡くなっていかれるあらゆる方が、あとに残りました者に、必ず残して下さるものがございます。それが「命日」でございます。

なにげなく使っておりますこの「命日」という言葉ですが、字を見ますと「いのちの日」とあります。文字どおり、自らの命をかけて、私たちに残してくれた「いのち」、あるいは生きている、いや生かされているということを確かめ考える大切な日でございます。

私たちは、命のリレーがあってこそ、こうして生活をさせていただけるのであります。

言うなれば、ご先祖様のお陰であります。

毎日毎日、目の前のさまざまなことに振り回され流されている私たちですが、それを一番根っこのところで支え、私が私として生きることを成り立たせている大きないのちの働きが確かにあるのだと、そしてそのいのちの働きの中に私たちが生かされていること現実がございます。見えない根っこに気づかせていただきたいものです。いのちの花が咲いているのは、ご両親や、数多のご先祖様があってのお蔭なのです。

「見えなくても お花を供えたい 食べなくても 美味をさしあげたい 聞こえなくても 話したい 見えざるものの 真心は美しい」

この詩の様に、亡き人のために、綺麗な花が供えられ、おそらく故人がお好きだった、お供え物が祭壇やお仏壇の周りにお供えされております。ご先祖様を想う感謝の表れが葬送の儀礼であり、ご法事や日々の仏壇のお給仕であります。

当山のお檀家さんで、五十年以上連れ添ったご夫婦のお話をさせて頂きます。

奥様が認知症になられ、旦那様が介護をなさっておられました。ある時、奥様がポツリと話された言葉が今も忘れられないそうです。奥様が「私が生きてたら、お父さん幸せになられへんね」と言ったのです。「なに言うてんねん、今も幸せだし、自分の体のことだけ考えたらええから、安心して」と答えたそうです。その後、奥様はお亡くなりになられました。「妻を本当に幸せにしてやれたかどうか心もとなく、もう少しこうしてあげたかったと後悔は尽きません。でも、お念仏があるので、必ず極楽浄土で再会できる、その日を楽しみに支えとして、希望を持って生活して行きます」と明るくお話して下さいました。それからというもの、より一層お仏壇に毎朝毎晩お念仏を称え、奥様のお好きな物をお供えし、お花も絶やすことなく、命日には私がお参りして共にお念仏回向致しました。これが日々の追善供養であり、また追善回向でもあります。

ご法事も追善供養、もしくは追善回向になります。亡き人に対して、善い行いを回し向けることであり、言うなれば、善根功徳のお裾分けであります。浄土宗では何よりもお念仏が最高の追善になります。お仏壇を中心とした生活を心がけ、お念仏をお称え下さい。

たとえ目には見えなくてもこの自分をしっかりと支えてくれている確かな存在に気づき、極楽浄土も目には見えないからといって無いとは限りません。必ず西の彼方に極楽浄土はあるのです。南無阿弥陀仏とお念仏をお称えするものは、どのようなものでも極楽浄土に救い取ると阿弥陀様の願いを信じ、極楽浄土を信じ、念仏に励んでまいりましょう。合掌