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住職法話1月「自分の命」

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たとい七八十の齢を期すとも、おもえば夢のごとし。いわんや老少不定なれば、いつを限りと思うべからず。」《法然上人「十二箇条の問答」より》

[現代語訳] たとえ七、八十の長寿を数えても、人の一生など思えば夢のようなものであります。まして老いているとか若いとかいっても、人の寿命がいつまであるかなど誰にもわかりません。「自分は何歳まで生きるのだ」などと考えてはいけません。
平均寿命が八十才を超えるようになった現代。人は誰しもが、できることならば、健康で若さを保ちながら、病むこともなく、少しでも長生きしたいと願っております。
しかしながら、老いも病も絶対に避けることができない「苦」であります。大切なのは、この人生で真実の仏のみ教えに出遇い生死の迷いを超え、仏恩を報ずる生き方に目覚め得たかということでしょう。

ある老人の話でございます。
「私は今年八十歳になりましたが、まだやりたい仕事や、やり残したことがあり、もう少し長生きしたいので、和尚さんは非常に御高徳なお方ですから一つ長命のご祈祷をお願いしたいと思って来ました」
「わかりました、では何歳位まで長生きしたいのか。」
「百歳まで生きたいと思っています」
「百歳ですか、あと二十年ですよ。百一歳になればお迎えが来ますがそれでよろしいか」
「じゃもっとお願いできますでしょうか」
「遠慮せずに一体何歳まで長命したいのか言ってみなさい」
「はい、では百二十歳でお願いします」
「百二十歳でよろしいかな」念を押されると老人は不安そうになり、「まだまだ寿命はいただけますでしょうか」
「まだまだ寿命は伸ばせるぞ、いっそのこと無量寿の祈祷をしてはどうじゃな」
「え?死なぬ祈祷がございますか、ではそれでお願いします」
と言ったそうです。
この死にたくないというのが、人間の本音でしょう。
私たちは「寿命」を授かっています。字のごとくよろこばしい命であります。
寿命が尽きたならば、死がそこにあります。願望に翻弄されることなく、現実をしっかりと見ることであります。
法然上人は阿弥陀様の慈悲を信じて一筋に念仏を称えなさいとお示ししております。極楽浄土に往生させていただき、「無量寿」の命を得ていただくためには、喜んで念仏を申す人にならせていただきたいものです。                   合掌