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カテゴリー別アーカイブ: 日記

住職法話9月「知識と智慧」

哺乳動物の寿命が昔と変わらないのに、なぜ人類だけがこんなに長生きするようになったのだろうか。それは人類だけが考える動物になり、他の動物にない唯一の特徴であるからだという一説がございます。

ところが、最近、あまりにも便利な生活状況のなかで考える習慣がおろそかになるという現象が見え始めました。手軽であり、便利なインターネットの普及により、すべてが目に飛び込んでくる、思考を必要としない時代になってきました。

車には、カーナビゲーションシステムが設置されていて、知らない土地でも、カーナビの指示通りに運転すれば、安心して目的地に到着できます。誠に便利なものができたものだと感心させられます。しかし、ここで考えないといけないことは、知識と智慧であります。

まさしくカーナビの道案内が知識で、自分自身の経験と感を頼りに、的確な判断で目的地へたどり着くことが智恵であります。回り道をしてでも、渋滞を避けたり、有料道路道案内の指示があっても、時間があるので、料金を支払うよりは、一般道を優先したりと。

知識は多いほど、気持ちは豊かになれるかもしれませんが、毎日の生活、人生の過ごし方には智慧が必要になります。

仏教は「考える宗教」であります。「生死」を考えることにより、生き方に変化をもたらします。

信仰心がない方でもまずは「考える」ことを大切に過ごしてまいりましょう。

そして、考え、最後にはすべてをお任せする。その仏様が阿弥陀様なのです。合掌

8月掲示伝道

令和4年8月

住職法話7月「供養の心」

「供養の心」という詩がございます。

ご紹介させて頂きます。来月はお盆です。居心地のよさは誰もが望むことであります。

施すことの大切さを今一度考えてみたいものです。

『供養の心』

人が笑顔で接してくれる はげましの声をかけてくれる 私の事を思ってくれる

こんな時 人は誰でも居心地のよさを感じる 子供も大人も 男も女も

人は誰でも居心地のよさを求める だから 人に居心地のよさを施せば

人に喜びと生きる勇気が生まれる そして 人に居心地のよさを施していると

いつの間にか 人からも施しをうけて 自分も居心地がよくなる

 

生きている人だけでなく 仏さまや亡くなった方にも 居心地のよさを施そう

きらきらと明かりを供え 美しい花を供え 手を合わせてご供養していると

仏さまのお顔が ほほえんでいるように見えてくる 亡くなった方が

微笑んでいるように思えてくる いつの間にか 自分が何か大きなもののふところに

抱かれているように思えてくる とても居心地がよくなる

 

居心地のよさを施せる人になるには お念仏をとなえるのがいい

まず お腹の底から声を出して 自分の気持ちをはき出すように お念仏をとなえよう

声を出し 気持ちをはき出していると やがて 心の中がからっぽになる

心の中がからっぽになったら さらにお念仏をとなえよう

仏さまのやさしいまなざしを見つめ 仏さまのかぎりない智慧を思い

仏さまのかぎりない慈悲を思い 仏さまのみ前に 身も心もひれふす思いで

お念仏をとなえていると 自分では気がつかないうちに からっぽになった心の中に

仏さまがすうーっと入ってきて 智慧と慈悲というお土産を 置いていって下さる

いつか気がついてみると 人に居心地のよさを施せる人になっている

人からの施しも 気持ちよく受けられる人になっている

幸せな気持ちが だんだん大きくふくらんでくる そのような境地に入れば

この世もあの世も 間違いなく 幸せでいられるに違いない

7月掲示伝道

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玉虫

昨日、境内で玉虫の死骸をみつけました。私が小さい頃、40年前までは、この時期になると玉虫を見かけたのですが、めっきり見ることができないようになりました。

玉虫は「金運アップの縁起物」だそうです。どんな良い事が起こるのか楽しみです。笑

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住職法話6月「困難な道」

星野富弘さんという方をご存知でしょうか。

24歳の時に不慮の事故で手足の自由を失っても、前向きに生き、口に筆をくわえ、詩や絵を描いて、50年。命の尊さを伝えておられます。

本の題名にもなっている「鈴の鳴る道」のエッセイをご紹介させていただきます。

 

電動車椅子に乗っていると、少しのでこぼこでも進むのが大変だ。
だから、なるべくでこぼこの道は避けて通ってきた。
知人から小さな鈴をもらって、車椅子につけた。
偶然、でこぼこの道を通った。いやだと思いながら。
そのとき、何とも言えない心に響く鈴の音が聞こえてきた。
何度も何度もそのでこぼこ道を通って鈴の音を聞いてみた。
その日からでこぼこ道を通ることが楽しみになった。
「人も皆、この鈴のようなものを、
心の中に授かっているのではないだろうか。」
その鈴は、整えられた平らな道を歩いていたのでは鳴ることがない。
人生のでこぼこ道にさしかかったとき、揺れて鳴る鈴である。
美しく鳴らしつづける人もいるだろう。
閉ざした心の奥に、押さえ込んでいる人もいるだろう。
私の心の中にも小さな鈴がある。
その鈴が澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日を送りたい。
私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う。

 

辛く困難な道をどうしても避けることができなく、覚悟を決めて進んでいく、いや、あえて困難な道、でこぼこ道を進む。その時に鳴る鈴の音色は私たちを癒してくれます。

このコロナ禍で人生設計ががらがらと崩れた方は少なくありません。

避けて通ることのできない時に、信仰の鈴がしっかりと自分の心にあるのか。それが信心であります。

すべて阿弥陀様任せで過ごしていきましょう。頑張らなくていいのです。頑張るの語源は「我を張る」。張り詰めたままでは心も身体も病んでいきます。阿弥陀様に委ねてまいりましょう。合掌

 

今年初の蓮が咲きました

5月27日今年初めての蓮が咲きました

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6月掲示板

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住職法話5月「お念仏と共に」

八木重吉さんという詩人が、こういう短い詩を書いています。

「草をむしれば あたりが かるくなってくる わたしが 草をむしっているだけになってくる」

念仏者は

「念仏すれば あたりが かるくなってくる わたしが 念仏をもうしているだけになってくる」

ただひたすらに念仏を称えている、念仏三昧になっていけば、念仏が相続できたことになるでしょう。

吉田兼好さんの「徒然草」の第39段に

ある人が法然上人に「念仏を唱えているとき、睡魔におそわれ仏道修行をおろそかにしてしまうことがあるのですが、どうしたらよろしいでしょうか」と訪ねたら「目が覚めているときに、念仏を唱えなさい」と答えたそうです。とってもありがたいお言葉であります。

頑張れと励ますわけでもなく、眠るなという事もなく、ありのままでいいんだと。

寛容なお言葉であります。しかし、それに怠けるのではなく

「信をば一念に生まると信じて、行をば一行に励むべし」

1回のお念仏でも往生できるみ教えであると信じで、お念仏の修業は一生涯続けてまいるのであると、法然上人はおっしゃっておられます。

是非とも、一生涯、お念仏と共に生きてまいりたいものです。

5月掲示伝道

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