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日別アーカイブ: 2019年1月3日

住職法話1月

明けましておめでとうございます。皆様にとって、実り多きより良い1年でありますよう祈念申し上げます。

「年頭に孫の笑いを土産かなぁ」小林一茶の句でございます。

現代人は「年頭に孫の土産はお年玉」ではないでしょうか。

また、こういう句もございます。「めでたさも 中くらい おらが春」小林一茶

中くらいは信濃の言葉で、あやふや、いい加減、どっちにもつかずという意味であります。この句の前にある文を読まないと一茶がこの句に込めた真意が見えてこないのです。「から風の吹けばとぶ屑家はくず屋のあるべきように、門松たてず煤(すす)はかず、雪の山路の曲り形(な)りに、ことしの春もあなた任せになんむかえける」

こんな文があって、この文の〈あなた任せ〉という意味が重要な役割を果たしている。ここでの〈あなた〉とは阿弥陀如来のことで、如来に全てお任せするという意味で使われています。要するに、弥陀任せのわが身であるから、風が吹けば吹っ飛ぶようなあばら屋でもあるし、掃除もしないで、門松も立てないで、ありのままで正月を迎えている。だから目出度いのかどうかあいまいな自分の正月であると歌っているのであります。

ある方は、正月だといって改めて何かしたことはなし、普段通りに正月を迎えています。日々〈今、誕生〉と新しい日を迎えているような感覚があって、正月だから特別に何かしなければならないと思ったことはなのです。それが良いのか悪いのか考えたこともないが、長年続いています。

「めでたさも一茶位や雑煮餅」  正岡子規

小林一茶は五十二歳で初めて妻を迎え、三男一女を授かりましたが、子どもたちが次々に亡くなるという不幸に見舞われました。
この句は、小林一茶の目出度さも中位なりおらが春をふまえているのは明らかであります。
新年を迎えてめでたいが、子どもが次々に亡くなるなどして、そのめでたさも大きなものとはいえない。それで「めでたさも中位」なのです。
子規も、新年を迎えてめでたいけれど、やはり自分の病気のことなどで、そのめでたさは大きなものとは言えなかったのでしょう。

身内が亡くなってしまう。お金がなくて住む場所や食べるものがない。不幸はそういう具体的なものですが、幸福は感覚的、気分的なものです。
幸せをいくら遠くに探しに行っても、見つかるものではありません。自分探しをするために海外に留学しても、本当の自分が見つかることなんてまずないでしょう。
身内と自分がそれなりに健康に日々を過ごしていて、住む場所や食べるものに困ることなく正月を迎えられる。幸せなことですよね。

元旦のテレビでは、初詣を終えた人に「今年は神様に何をお願いしましたか?」と尋ねるシーンが映し出されていました。
聞いてみますと、毎年同じような答が返ってきます。
「家族がこの一年健康でありますように……」
「今年こそは商売が繁盛しますように……」
「目指す大学に合格しますように……」
神社仏閣は自分の願いをかなえてもらうためにお参りするところと思っているようです。もっとも、お願いをする方も一日限りの信者ですから、そうそう神様や仏さまを当てにしている風でもなさそうで、願い事が聞き入れられなかったといって、詐欺罪で訴えたという話は、これまで聞いたことがありません。
確かに、初詣は、「お正月だから……」「皆がしているから……」という、ごく軽い気持ちで出かけているのだと思いますが、やはりこの初詣風景を見ていますと考えさせられます。また、そんな人間に迎合するように、「あなたの願い事をかなえてあげましょう」という神社仏閣が実にたくさん存在しています。
「これは一体全体どうなっているのだ!」と首をかしげずにはおれません。
年末には、新聞やテレビで「こうこういうご利益があります。初詣に出かけましょう」と大々的に宣伝する神社仏閣がありました。
残念ながら、「神社仏閣は願い事をかなえてもらうところ」と思っている人がいる限り、こうしたご利益宗教がなくなることはありません。
しかし、人間生きていれば、晴れの日もあれば雨や風の日もあり、嵐に出会うことだってあるのです。願い事をかなえて下さいというのは、雨や嵐の日をなくして晴れの日だけにして下さいということと同じなのです。ところがよく考えてみて下さい。
たとえ願い事が一つ満たされても、すなわち晴れた日がたまたまやってきたとしても、必ずまた雨の日や風の日がやってきます。
一つ問題が解決したと思えばまた一つ問題が起こる。それが私たちの人生なのです。
ですから、目先の晴れの日だけを願って、一喜一憂するような人生からは、決して真の安らぎは生まれません。
それより何より、そんな人間の都合の良い願いをかなえてくれる神さまや仏さまなどはいらっしゃいません。
そうしますと、雨の日や嵐の日をなくして下さいと神仏にお願いするよりも、雨の日であっても嵐の日であっても、それを受け入れて、そこから立ち上がっていく生き方を身に付ける方がよっぽど理にかなっています。
そうして、そのような生きる智慧というものを与えて下さる宗教が本当の宗教なのです。
「仏さまにこちらの願いを聞いてもらおうとするのではなく、私の方が仏さまのお心(願い)を頂いて生きなさい」とおっしっています。
南無阿弥陀仏は「晴れの日でも雨の日でも、あなたのことは必ず護ります。何があっても大丈夫ですから、私を支えにして、与えられた命を粗末にせず、この人生を精一杯歩みなさい」という阿弥陀さまの呼び声です。
「その呼び声に込められた阿弥陀さまのお心(願い)を頂くのですよ」とおっしゃっているのです。
そのお心(願い)を頂けば、目先の幸不幸に惑わされ、晴れの日だけを追い求めようとする我が心の浅ましさが自ずと知らされます。
そうして、「どんな日が来てもかまいません」と立ち上がっていく人生の智慧が恵まれるのです。
「雨がふってもブツブツ言うまい。雨の日には雨の日の生き方がある」とおっしゃっています。
雨の日があれば、「雨のおかげでこんな良い一日にしていただきました」と、しっかりと雨の日を受け入れ、そこに大きな恵みを見出しておられることがよく分かります。
まさに、真実の宗教に出会った方の人生の豊かさというものを窺い知ることが出来ます。
この一年もまた阿弥陀さまのお心(願い)を頂き、雨の日も風の日も、阿弥陀さまと共に歩ませて頂きたいものです。

 

 

 

 

住職法話12月

住職の法話(五蘊盛苦)

五蘊盛苦(ゴウンジョウク)とは、心が受け取る五種類の機能が盛んになりすぎてしまう苦しみであります。蘊とは集まりであり、五つの集まりとは、色・受・想・行・織(シキジュソウギョウシキ)であります。五蘊は般若心経にも出てきます。

色とは、本体であり、受は、感覚・知覚・印象であり、想は受け入れた感覚を思い出すことであり、行は意志と行為のことで、対象に積極的に働きかけることであり。織は物を認識し区別することであります。

喩えるならば、ここに女性がおられます。女性は本体、物質的な形、存在であるので、「色」になります。女性をみて素敵だなぁと感じる心は、感覚になるので「受」になります。その女性に恋心を寄せてしまう、感覚は何かと考えると、恋になるので、「想」になります。そして、もっと親密に話したい、食事を共にしたいという意思が働いて「行」になります。切ない想いを自覚する、己の中の判断を意味するので、「織」になります。私たちが生きている以上、様々な苦しみから逃れることなどできないわけです。その苦しみから逃れる、解放される道は、この六道輪廻から厭い離れることしかないのです。

もう一度生まれ変わることのないように、お念仏をお称えし、この迷いの世界から解脱し、西方極楽浄土に往生することが、この苦しみから逃れる方法です。ただただ阿弥陀様の本願力を頂戴して、お念仏精進してまいりましょう。